2025年1月30日。
朝起きたら、母は既に旅立っていました。
いつもなら2時間置きには目が覚めていたのに、この夜だけはぐっすりと寝入ってしまい、せっかく自宅介護、自宅お看取りを選択したのに、最後の最後に、ひとりで旅出させてしまいました。
目覚めたとき、部屋の中が静かでなんの音もしていなくて、母の呼吸音が聞こえませんでした。それに気づいたとき、本当に恐怖を感じました。
ひとりで旅立たせたことを悔やみながら、自分を責めながら1年。
でも、わたしは3年間、自宅での介護ができた、最期は自宅がいいと言った母を自宅から旅に出せた、きっと母は、わたしが寝入った隙にそっと旅立ったんだ、わたしはやり切ったんだ、そう考えるようになりました。
いろんな人の考えに触れながらの3年間でした。
人生とは120年の寿命の中で、60年の還暦まで学び、成長して、次の60年の還暦で子どもに、赤ちゃんにもどっていくのだ、という考え方。
苦難、災難、困難など「難」はいろいろと降ってくるけれど、この「難」がない人生を「無難」と呼び、この「難」が「有る」からこそ「有り難い」になるのだ、という考え方。
これはわたしが考えついた話ではなく、インターネット上で見つけた話ですが、特にこの2つが、わたしの介護生活に影響したと思います。
そして、わたしはこの自宅介護(要介護5相当)の間、「怒る」ということがありませんでした。元々、母と仲がよかったこともありますが、わがままを言われても、駄々をこねられても、「可愛いなぁ」と思えたのです。
この自宅介護、自宅お看取りは、母がわたしにくれた「母の人生でただ一度の、最大にして最高のギフト」でした。
そう思えるようになってきたのです。
1年365日。長いようで短い父も母もいないひとりの暮らし。
最初の2ヶ月は泣き暮らしました。
わたしと従兄の2人だけが見送った、お別れ葬。棺の中には、母が使ってくれていたわたしの手編みのショールを入れました。わたしが待ち、母を偲ぶものとしてもよかったのですが、母のそばにわたしもいたいと思ったのです。わたしの自己満足でしかなかったかもしれませんが、「一緒に持って行ってね」という気持ちでした。
そして3月の下旬。急に我にかえりました。
「ひとりで生きていくんだ」
「仕事しなきゃ」
就職活動を始めたのです。
5/1。無事に就職できたのは、幸いでした。
一生懸命に仕事を覚えたのですが、秋から冬にかけて、体調を崩すようになっていきます。
ひとり暮らしで自覚のないまま無理をしたのか、もともと絶好調ではなかった身体のサインに気づき始めたのか、頭痛などの不調が出始めたのです。
それでも、何とか年内の仕事納めまで迎えて、ひとりでの年末年始となりました。それは同時にひとりでの誕生日を迎えることでした。
ひとつ、わたしは歳を重ねたのだ。
そして。
母の命日がやってくる。1年が過ぎる。
2026年1月30日。
一回忌なのですが、戒名もないですし、特にお経をあげることもなく、水を取り替え、蝋燭に火を灯し、お線香をあげて「1年だね」と話しかけ、5分しかつかない小さな蝋燭が消えるまで、炎を見つめながらじっと母のことを偲びました。
1年。わたしはひとりで1年生きたんだ。
もちろん、ケアマネジャーさん、ヘルパーさんたち、デイサービスの先生方、会社の上司、同じ仕事をする仲間たち、そしてまるで母のようにわたしを支えてくれる叔母(母の妹です)、いろんな人たちに支えられたからこその1年でした。
そして、母のことを涙無しに懐かしく思えるようになり、寂しさはもちろんありますが悲しいばかりだった1年前に比べれば、随分とひとりに慣れたな、というところまで来ました。
今、実は2026年の2月19日なのですが、昨日2月18日に入院しました。この記事は病室から書いています。母が生前お世話になり、わたしのかかりつけの病院でもあります。
なんだか懐かしいです。母のことも懐かしく思い出しています。体調はあまりよくありませんが(入院だから当然ですが)こういう記事を書く時間はたくさんありますね。
また書けるかもしれません。
この記事が、もし誰かの小さな灯りに慣れたら、嬉しいです。

コメント